【美味しいのはどちら?】
その日、ビルボはずっと王様の横から離れませんでした。
いえ、離れないというよりそれは既に見張り番のようでした。
(ああ、王様ときたらいつになったらお起きになるおつもりだろう!)
先程から呪文のように心の中で何度も呟くビルボでしたが、慎ましやかで有名な
彼の事でしたから、決して疲れて眠ってらっしゃるエルフ王を起こしたりなどは
しませんでした。
しかしそんなビルボの気遣いにも、今日の王様は気付いてくださる素振りは全く
ありません。
そもそもの始まりは、王様のお散歩で。
今朝方ふらりと馬でお出掛けになった王様は、夕方にはくたくたになってお帰り
になりました。
どれだけお疲れかというと、出迎えたビルボにおやすみのキスをして、そのまま
彼の小さなベッドへつっぷして寝ってしまわれたほどでした。
ああ、もう王様ときたら小さい人のベッドを独り占めなさって!と、森中のエル
フたちの非難も何のその、膝を折って丸まって、見事ビルボの小さなベッドにお
休みになってしまわれたのです。
ええ、もちろんビルボのことですからそんな事を怒ったりはいたしません。
それどころか体を丸めて寝る王様のかわいいらしさに、思わず笑みをもらしてし
まうほどでした。
伸ばした腕はベッドからはみ出して、草色の衣と金色の髪はすそからこぼれて流
れ落ます……。
――本当に、ベッドを占領された事なんてビルボにとってはちょっとした事で。
しかし、ふと気付いてしまったそれは、ホビットであるビルボには大変な事でし
た。森の岩戸を出たときは確かに緑の息吹だけで飾られていた王様の花冠。
それが、…きっとあでやかな活躍でもなさったのでしょう、よく出かけ先で冠を
壊してしまっては、森の緑にお願いして新しい冠を手に入れる王様でしたから、
今日の王様も出かけたおりとは違った冠をつけてお帰りになっておりました。
葉は紅葉に染まり始めた楓の大葉。
しかしその大きな葉の影に隠れたそれにビルボはとうとう気づいてしまったので
した。
それは…、赤く熟れて、口の中に入れようものならその甘酸っぱさに飛び上がっ
てしまいそうな食べごろの木苺の実でした。
もう随分と秋が近づいているとは思っていましたが、ホビットにとってこれ程嬉
しい季節の便りはありません。
その実はそのままいただいても充分美味しいですし、煮込んで焼きたてのスコー
ンにつけようものなら飛び上がる程の美味しさなのです!
(王様、それは一体どこで採っていらっしゃったので!?)
眠り続ける王様を前に、ビルボはごくりとのどを鳴らします。
しかも王様は冠をつけたまま眠ってしまわれたので、ともすれば寝返りをした拍
子に冠はぎゅっとつぶされてしまわれそうで…。
(わーっ!王様それ以上動かないで!)
思わず声に出してしまいそうなのを我慢して、ビルボは大変ハラハラしながら王
様のお休みを見守らなければなりませんでした。
ええ、もとよりそのベッドは王様に占領されておりましたが、今のビルボはそれ
どころではありません。
ごろんとやった拍子に木苺がつぶれて赤い染みでもつくろうものなら、……あぁ
、王様! 私はいっその事、あなたのその冠から小鳥のように木の実を獲り去っ
て、盗み食いしてしまいたいぐらいです!
それをじっと我慢してあなたが起きるのを待っているのですから、早く起きてそ
の木の実のありかを教えてくださいなと、ビルボはこころの中で王様に懇願する
のでした。
(まだで?まだなのですか、エルフ王?)
しかしエルフ王は全く起きてくださる気配がありません。
その寝息は大変穏やかですし、まさに泥のように眠っておいでです。
よく見ればベッドのすそからこぼれた衣の端々は、泥で汚れておりますし、中に
はほつれているところだってあるぐらい。
本当に疲れていらっしゃるのでしょう。
もしかしたら、朝までお起きにならないかもしれません。
(ちょっとだけ…、見るぐらいなら気付かれないかも…。)
今日はもう諦めます。
だから…、お行儀良くちゃんと待っていたそのご褒美に、その邪魔な大きな葉っ
ぱをそっとめくって、木苺がどれだけ熟しているかぐらい確かめさせていただい
ても良いですよね?エルフ王。
心の中で囁いて、ビルボの丸くて小さな指先がそっと花冠へと伸ばされました。
いえ、私は決して盗もうなんていうのじゃありませんよ!
ちょっと偵察させていただくだけです。
ほらあれです、まだ熟したてだったら出かけるのは明日の夕方でも、明後日でも
よいですし。
でも、もしとっても熟してたりなんかしたら、あなたを朝一番に叩き起こして、
場所を聞き出たら最後、その足で一目散に森に採りに行きますからね!
それでもそっと…王様を起こしてしまわぬように気遣ってめくられた楓の大葉。
その下で、木苺は赤く熟れたその芳醇な実を、きらきらと光らせてビルボに微笑
んでおりました。
「…ふふふっ」
突然の笑い声。
すっかり木苺の実に心奪われてしまっていたビルボは、目を閉じたまま突然くす
くすと笑い出した王様に、飛び上がって驚いたのでした。
だってそれはもう…、あまり美味しく熟れたその果実に、とうとうビルボがそっ
と指を触れた瞬間だったのですから!
いえ、誓って言いますが、別に木の実を採ろうとしたのではなくて、ちょっと一
粒だけ頂いて味見を…、いやいや! あんなに寝返りを打ってらしたのだから一
つぐらいなくなっても気がつかれは…、いえいえ! そんな事、この慎ましい事
で有名なビルボ・バギンズがするわけがありませんとも、信じて下さい!
「…ねぇ、ビルボ?」
どきどきと高鳴る心臓を押さえつけるので一生懸命なビルボに、王様は目をつむ
ったままそっと静かに尋ねました。
その声はいたずら心いっぱいで。
見えていないはずなのに、引っ込めた手をどきどきと握り締めているビルボの姿
がまるで見えていらっしゃるようでした。
「あなたはちゃんと分かっておいでだよね?エルフの友」
私はこう見えてもエルフの王様で。
戦士でもあるけれど、見目の良さだってそう劣ってはいないのだよ?
そう囁くと、王様はやっとその目をお開けになって、少しだけ起こした体を両肘
を突いて支えます。
その頭の頂きには、楓と木苺が――王様の淡く光る金色の御髪の上で赤く色づい
ておりました。
さあビルボ・バギンズ質問だ!
「あなたがつまみ食いしたいのは、この熟れた木苺? それとも私? ―――こ
んな極上の据え膳を前に、そんなもの目に入っておりませんでしたなんて…王の
私に恥をかかせるあなたではあるまいね?」
ベッドの上でにっこり微笑む王様に、どきりとまた心臓を速めたかわいそうなエ
ルフの友は―――大好きな木苺に負けぬほどに、真っ赤に顔を染めたのでした。
(終わり)
室戸様へ捧ぐ。
小人の指輪 美智子 拝